エホバの証人によるムチ問題について

序論

エホバの証人に関わる問題で最大のものの1つは、これまで長年行われてきた「鞭」(ムチ)と呼ばれる極めて過酷な身体的児童虐問題と考えられます。

このムチ問題については、『東洋経済誌』2022年10日8日付記事1や、毎日新聞電子版連載記事「声を聞いて・宗教2世」シリーズ2などの社会的に信頼できる情報媒体において取り上げられているほか、過去に公刊されている出版物の中で自分自身の「ムチ」経験について公表している元信者2世の方も複数おられます。(いしいさや氏著『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』‐株式会社講談社,たもさん氏著『カルト宗教信じてました。』‐株式会社彩図社、など。)

もっとも、当然のことながらこれらの公刊されている出版物の内容だけでは、エホバの証人内部でどれほど長期間かつ広範囲に、どれほど過酷なムチがなされていたか、そして各家庭のムチに教団の指示や強制があったかどうかについての詳細を詳しく知ることには限界もあります。

また他方で、上述の『毎日新聞連載記事2023年1月5日付記事』は、このようなムチの問題にいての教団側の公式見解として「エホバの証人日本支部の広報担当者は『教団として暴力を肯定することはしてこなかったが、1990年代には誤った解釈でむち打ちなどがされていたことは聞いている。教えを実行する選択はあくまで個人にあるが、2000年代に入ってからは正しく解釈できるよう、DVDなどにして教えを伝える努力を重ねている』としている」と報じています。この公式見解が真実を反映したものであるかどうかの検討も、被害の再発や拡大を防止するうえで必要なことと思えます。

このような観点から、過去にすでに公開されている経験談に加え、ムチ被害のより詳細かつ具体的な実態の把握がなされることは有益であると考えるため、当弁護団において調査した内容について以下に公表するとともに、エホバの証人広報の公式見解も加味しながら、これら現実の実態から考察されるべきと考える点について記載いたします。

まず、「実際の詳細な実体験を紹介すること」が最も理解に資すると考えるため、当弁護団において確認した複数の実際の体験談を掲載いたします。

1 報告事例1

私たち弁護団には複数のエホバの証人2世経験者も参加しています。そうしたメンバーの一人は自分自身のムチの経験について詳細な経験談を書面で提出しました。この例は「ムチ」問題の全容をイメージする上で非常にわかりやすい助けとなると思われるため、1つめの実例として当該経験談を長めに記載いたします。なお、現在40代後半の男性の経験です。

【実例1】

「一般の人が思い出せる幼少時の最初の記憶というのは何歳くらいのもので、どのような思い出なのだろうかと考えることがあります。私の人生最初の記憶はおそらく3歳くらいの頃のもの、王国会館と呼ばれるエホバの証人の宗教施設で、泣き叫ぶ自分自身の体と口を押さえつけながら、信者であった母が私をトイレに引きずってゆき、何度となく殴打されたことから始まります。当時の王国会館は非常に古い作りで、水を流すための(今でいうトイレのレバーかわりの)「鉄の鎖」がトイレの天井からぶら下がっており、その狭い空間の中で異常としか表現しようのないムチをされ続ける状況を今でもよく記憶しています。この王国会館は東京都内、当時の小岩駅のそばにありました。  

小学校に上がる前の幼少期の記憶はほとんどこの「ムチ」の恐怖であったといっても過言ではありません。当時はエホバの証人の集会は週に3回、そのうちの2回は夜の7時に始まりました。その集会のときに眠くてぐずった、集中していなかった、集会場の外で話す言葉が大きかった、他の信者の前で冗談を言ったなどの、幼い子供であれば誰しもがするであろうことについて「ふさわしくない行いをした」という理由で、その王国会館の中又は帰宅したあとの家(帰宅は夜10時ころ)で幾度となくムチをされました。この頃のムチは、母が布団叩きの柄の部分や木製の靴ベラなどおよそ固くて痛みを与えやすい道具を選び、自らズボンとパンツを下ろしてお尻を母に向け、母が渾身の力でお尻を数回、数十回と連打するというものでした。

当時は幼かったために、もちろん確実に正確な年は言えませんが、私が小学校に入学する前後、つまり1980年代の前半から半ば頃にこの「ムチ」に関して決定的な転換点がありました。今も当時もエホバの証人組織には「巡回監督」と呼ばれる非常に権威のある宗教指導者がいますが、この巡回監督が自分の所属していた「会衆」(エホバの証人の信者グループの最小基本単位で、100名くらいが所属していたグループ)を訪問し、全ての信者を対象にした講話を演壇でしたときに、「今のムチの仕方は甘い」という趣旨を強く説法し、この巡回監督自らが「子供に最もダメージを与える」ムチを持ってきて、集会の後に信者の親たちに配ったことがありました。私はこの時のことをとても良く覚えています。というのは、まさにこの日の夜に親にムチをされることになり、その際に姉から「あの巡回監督の話があったから、今日からムチはものすごく痛くなるよ」と言われて実際にそのムチ棒を見せられ、恐怖と絶望に震え上がったからです。また、当時の巡回監督は2年から3年の任期で入れ替わっていきましたが、私は今でも歴代の巡回監督の名前を憶えており、このムチを推奨した巡回監督の名前も顔も覚えています。自分の記憶と歴代の巡回監督の順番を考えると、こうした転換が起きた大体の時期を特定できると考えています。また、何より、この書面を弁護団に提出する際に、なるべく正確に事実を伝えたかったので、今も現役信者である母に当時のことを聞きましたが、母もまた「その巡回監督がムチ棒を配ったのは間違いない、今でもよく覚えている」と言っていました。この巡回監督が配ったムチ棒は通常の人が想像するかもしれない水道やガスのホースとは全く違います。工業用の強化されたゴムホースで、中に非常に細い金属線のようなものが複数本入っていたのを覚えており、しかもやや柔らかくてしなりがあるために体に与えるダメージ・痛みが著しく酷いものでした。当時の私たち子どもにとり、まさに「拷問専門」の道具に他ならないものでしたし、大人になったいまでもその認識は変わりません。  

この時点からの「ムチ」はおおむね以下のようなもので、私が成長して体力がつき、母に抵抗できるようになった中学校2年生までずっと続きました(体力面というよりも、その年に私自身が洗礼を受け、正式な信者になったことも大きな理由だと思います)。

まず、「ムチ」をされる理由は、集会や伝道にいくことを少しでもいやがった・集会で集中していなかった・集会の始まる前や終わった後の言動が良くなかった・禁止されているテレビを見ていた・エホバの証人信者以外の学校の友人と遊ぶところを見られた・当時流行していたキン肉マン消しゴムを拾って家に持って帰った・ほかの信者と話すときの態度が悪かったなどの本当に些細な理由でしたし、また、逆に言えば、どんな些細なことでもエホバの証人の教理に少しでも反すると思われると「ムチ」をされました。
「ムチ」をされるときは、「今からムチをする」、「家に帰ったらムチをする」と宣言をされ、この宣言をされた時点で、大げさではなく恐怖と絶望でボロボロと泣き出しましたし、家で宣言されるときはその時点で毎回泣き叫んでいました。つまり、ムチは身体的な痛みとは別に、苛烈な精神的打撃を子供に与えるものであり、客観的に考えても精神的に崩壊しておかしくないレベルの精神的打撃であったことを強調したいです。実際のムチの際は、幼少期と同様、自分でズボンとパンツを下ろしてお尻を出すことを要求され、痛みへの恐怖感からためらってそれができないでいるとストップウォッチで時間を計られ、1分ためらうごとにムチの回数が1回増えました。母はムチ棒を使って渾身の力で1回尻を殴打しますが、たった1回で飛び上がり、転げまわり、泣き叫ぶほどの痛みで、打たれた箇所には2重のミミズ腫れができ、2,3週間は腫れが続き、ムチをされてから数日は椅子に座るたびに痛みがあり、された当日は風呂に入ることもできませんでした。自分が犯した「罪」の大きさに応じて、このムチを1回、3回、5回、多い時は10回と回数を決められ、5回以上される時は泣き叫び、痛みで転げまわるという永遠に続くような時間が1時間、2時間と流れました。そして、子供が決して逃げられない「家庭」の中で、1週間とか、数週間に1回の頻度で、何年にもわたって行われ続けていました。このことに気づいてくれて助けてくれる大人は誰もいませんでした。
こうしたムチは少なくとも私たち家族がいた「会衆」、そして近隣の会衆の子供の大多数がされていました。子供たち同士がその話をしますし、親同士はしょっちゅう「どのようなムチをしたらいいのか」「もっと痛くするにはどうしたらいいのか、今のままでは痛みが足りない、甘い」などと話し合っていました。そうした親たちの会話の中には、「ムチの傷を見られると、信者でない夫や学校の先生に児童虐待していると勘違いされるから、お尻に集中しないとだめだ」というような会話があったこともはっきり覚えています。
勘違いをしないでほしいのは日本全国で巡回監督がムチ棒を配ったのかどうかは自分はわからず、このような子どもの虐待道具が組織的に全国で配られたとか、私が経験したことと全く同じムチが全国で全く同じようにされていたと言っているわけではないということです。ある程度成長してから、エホバの証人の若者同士でムチについての話をする機会は多くありましたし、ムチの方法や道具には地域差があることを知っています。中には「ボールペンで手や足を刺された」というような、私たちの地域ではあまり聞かないようなムチをされたという話も聞いたことがあります。同様に、「ムチをされた後にありがとうございましたと言わないと、更にムチが増えた。それがあまりに屈辱的で精神的打撃が増した」という話を他の人から聞いたことがありますが、私たちの区域ではそのような習慣はなかったです。ただ、そのように地域差があることは、私が間違いなくムチをされて育ったことや、私がされたムチには明確なエホバの証人幹部からの指示があったことを否定することにはならないと思います。同じように、ペンで刺された子が他にいたとしても、私たちがされたムチがそうした虐待行為と違うからといって、彼らがペンで刺されたことを否定する事にもならないと思います。中には、私と同世代で「自分はムチはされませんでしたよ」という人がいるかもしれません。そのように、たまたまムチをされなかった人や、親が熱心な信者ではなかったがゆえにムチをされなかった人が存在したとしても、それが私たち多くの子供が経験した事実を否定する理由にはなり得ないと思います。

母の現在の心情を考えると心が非常に痛みますが、この事実を公表することには社会的意義があると信じています。私は間違いなくこのような虐待を受けて育ちましたし、その虐待はすべて「子供である私がエホバの証人信者として育つこと」、つまり、私に宗教を強制することを目的として行われていたこと、そして、少なくとも私や私の周りの子供達についてはムチについて教団幹部の指示があったことが確実だと考えています。こうした虐待事例があることを社会が知ることはとても大事なことだと思います。エホバの証人組織の広報は、「一部の信者が解釈を誤ってそのような行為をしていたことを聞いたことがある」という声明を出したという一般報道があるようですが、そのような彼らの説明が正しいのか間違っているのか、そして、「彼らがどのような宗教団体なのか」を判断するうえで彼らの説明をどのようにとらえるか、世間の人に問いかけることは社会的意義があると思います。また、私は今では母のことを許していますし、母に愛情を持っています。母は本来は優しく誠実な人で、その誠実さに付け込まれてエホバの証人組織からムチをするようコントロールされたのだと思っています。

2 報告事例2

 上記の東京都内の事例は、「ムチ問題」の実際の現実を具体的に示すために敢えて全文を掲載したものです。この事例1の内容とは別に、東北地方出身の別の40代後半の男性は、当弁護団にご自身のムチの実体験について以下のように語ってくれました。この2つの事例の比較から得られる結論は重要なものに思えます。

※なお、事例2以降の全ての事例は広く一般から報告を募りそれに応じていただいたものであり、担当弁護士が事前許可を得て「録音をしながら」時間をかけて丁寧な聞き取りを実施して得られた内容です。

【実例2】

①自分がムチをされていた地域は、当時在住していた岩手県内である。
②ムチをされていた期間は少なくとも小学校に上がる前後の6歳頃の時から11歳の時まで。
(11歳の時にバプテスマを受け正式な信者とされ、以後はムチはやんだ。)
③使用されていた道具は、最初は洗濯物叩きの棒、次に教団の指導者(主宰監督と呼ばれる立場の長老で、会衆内で一番権威のある長老 注:長老とは各会衆で一番高い地位にいる宗教指導者。)が指定した工業用ゴムホース、そしてベルトなどだった。
④当時は木曜日の夜に集会があったが、その時に上述の主宰監督が演壇で全信者に向けて「ムチにはこういう厳しい道具を使わないとだめだ」と言って工業用ホースの現物を見せて指示したことがあり、それを機にゴムホースが使われた。その後、「しなやかで身体に当たる範囲が大きく、子供に与える痛みがより大きいから」という理由でベルトが多く使われた。 ⑤自分の記憶では、上記の宗教指導者(主宰監督)がムチの現物を見せて指示をしたのは小学校4年生の頃で、1980年代半ばで間違いないと記憶している。なぜなら、自分の父親も長老だったので、私は歴代の長老や巡回監督の名前をよく憶えおり、彼らがその立場にいた時期を逆算し、自分自身が直接見聞きした記憶を重ね合わせると、その時期と特定できる。
⑥ムチの回数は1回につき3発から10発。恐怖感と絶望感で逃げ回るところを部屋の隅に追い詰められ、両親から体を押さえつけられてムチをされた。痣や腫れが2~3週間残り、ムチをされて数日の間は椅子に座ることができない痛みが残った。親がムチで狙った場所が逸れると更に別の種類の激しい痛みがあり、ベルトの金属部分が当たって傷がついたこともあり、その傷は今だにまだ体に残っている(その写真は弁護士さんに提出した)。集会の最中に寝そうになると、目を覚ますためなのか罰としての「ムチ」の一環なのか、ボールペンで手や足をつき刺された。

⑦ムチをされる理由は、集会で眠そうだった・実際に寝た、ということをはじめとして、親の教えるエホバの証人の教えに反すると判断される都度されていた。

 

※上記の事例1・事例2の二つの実例は、東京・岩手という離れた別地域であるにもかかわらず、「ある時点を境に、エホバの証人の幹部からムチをする道具を指定され、その時期から過酷さが増した」という点において共通しており、さらにはその時期や指定された道具の態様、ムチの内容・理由もほぼ重なるように思われます。

3 報告事例3

 私たち弁護団が聞き取りをしていて最も心が痛むことの1つに、思春期を過ぎた女性、しかも生理中であったとしてもムチをされたとの体験談が複数寄せられていることです。30代前半の女性は、ご自身の実体験について、以下のように語ってくれました。

【実例3】

①自分がムチをされていたのは埼玉県で、1990年前半から2006年ころまでである。2000年を過ぎても普通にムチは行われていて、中学生時代ももちろんあり、高校生になってされたこともあった。生理中でも全く関係なくムチをされていたし、自分の周りにいた信者の子供たちも大体同じ状況だった。
②素手、ベルト、普通のゴムホース、洗濯機のゴムホース(ゴムホースと言ってもワイヤーが入っていてとても固いもの)など、道具はいろいろと変化していった。泣いたりいやがると数が増えたが、1度にされる回数は最大で33〜40回の殴打だった。これは聖書の中で「イエスが叩かれた回数」が書かれているらしく、その回数を上限とされていたので具体的な回数を憶えている。
③ムチをしたのは両親ともどもで、特にそのうち片方の親については感情のコントロールが効かずにムチをしていたと感じ、愛情を感じたことなどなかった。
④ムチをされると毎回尻が内出血状態を超えて板みたいにガチガチになった。体感では座るとかが無理というレベルを超えて、もう通常の痛覚が麻痺するようになった。学校では体育とかプールで虐待がバレないかが心配だった。
⑤ムチをされる理由は、学校で注意された、集会で寝ていた、親の気に食わない反応の時、お祭り(エホバの証人にとっては異教)に誘われたのを断らなかった、男子とメールした、などの理由。
⑥このムチについては「エホバの証人組織」が指示していたのが間違いないと感じる。集会の経験談や大会の経験談(注:エホバの証人の教えの中で信者が演壇で語る「経験談」は教育内容として重要視されている)でも、ムチの必要性は当然のこととして常時語られていたのを覚えている。とくに、小学生か中学生くらいのとき「巡回大会」(注:エホバの証人が1000人から1500人程度集まる大規模な宗教行事)で、明確に「ムチ」という言葉に言及され、「ムチを惜しむな」という趣旨の話があった後、緩くしていた家庭も激化したことを覚えているし、自分は、両親が仲間信者のうち長老の妻や入信する際の指導役信者にムチをするようにと言われて実行していたのを見ている。
⑦現在も精神的トラウマに悩んでおり、鬱症状やフラッシュバック、今でも見張られてるという感覚があり、エホバの証人をやめた後も「当時の些細な禁止事項」に当たることをすると恐怖感を感じる。また、今も現役の信者としてエホバの証人教団に残っている信者2世の人たちは「ムチのおかげで今の自分がある」とたびたび言っているのを見聞きしているで、その人たちが子供にムチをしないとは到底思えず、彼らの子供たちがとても心配でもある。

4 報告事例4

 序論で触れた通り、エホバの証人側の広報の公式見解は「1990年代には誤った解釈でむち打ちなどがされていたことは聞いている」というものですが、事例3のケースでは2000年を過ぎても「ムチ」が普通にされている状態だったと指摘されています。この「ムチ」はいつ頃まで行われていたのでしょうか。
 この点につき、別の40代半ばの男性は、以下の報告を私たちに語ってくれました。

【実例4】

①自分がムチを経験したのは滋賀県内でのことである。
②自分自身がムチ被害に遭ったのは1978年~1990年頃の期間。自分が生まれたときには両親はすでにエホバの証人信者だったので、これより前の記憶にない乳幼児の頃にされていた可能性もあるが、自分の記憶があるのは2歳~15歳頃である。
③最初は平手、その後なぜか「手」はふさわしくないということで小学校にあがるくらいからゴムホースや革ベル卜に変わっていった。尻をぶたれ、服を自分で脱ぐようにいわれるなど、自分が知る他の多くの信者家庭のムチと同じ態様であったが、毎回そういうものだったかどうかは記憶にない。というのは、その他にも家から閉め出される・真っ暗な蔵に閉じ込められる・口ごたえをすると頬を強くつねられるなどがあったし、父が長老だったのでいつも模範的でないといけないということでいろいろなムチをされたから。
④ムチの理由としては、主に、集会と伝道に関連して態度がきちんとしていないことが理由。ただ、家庭が長老家族だったこともあり「模範的」信者の子供であることが常に求められ、宗教活動に限らず、親への反抗とみなされれば、どんな些細なことでもムチの対象となった。まさにありとあらゆる理由でムチをされた。
現在は親もエホバの証人としての教理を離れており、非常に良好な関係で当時のことをいろいろ話すが、「子供に愛を示すのならムチをするように」と教団に徹底的に教えられたこと、逆に言えば「ムチをしないのであれば子供を愛していないことになる」という組織の教えに従っていたのだと結論付けている。実際に、エホバの証人が教えに使う出版物には再三「ムチは子供に愛を表わす方法」と述べられていたし「ムチをしない親は子供を憎んでいる」といった話が集会(公開講演、ものみの塔研究、その他の様々な演壇からの話)や、エホバの証人としての活動のありとあらゆる機会になされていた。繰り返すが、今は「エホバの証人は間違っていた」と考え、この教団を離れるように自ら説得してくれた自分の父親本人に何でも聞ける状況にあるので、これは父から直接聞いた話でもある。
⑤自分はそのように育てられた後、自分自身もエホバの証人を信仰するようになったため「親がムチをしてくれたからここに残れてるんだよね」などと信じ込むようになり、自分でも最悪の害と思うこと、つまり「自分自身の子供にもムチをしてしまう」という虐待の連鎖を引き起こしてしまった。お尻を出してムチをするという、いわゆる「みんながやっていたムチ」である。
⑥今回の弁護士さんからの聞き取りに正確に答えるために、聞き取りの後に自分の妻と自分たちのしてきたムチについてよく確認したが、少なくとも2015年まではムチをしてしまっていたことは確実だと夫婦ともに記憶している。また、私たちがいた会衆では、2020年頃までムチをする人たちがいたことを覚えている。というのは、その頃にコロナの影響で「集会で集まりあうこと」が一時的に中止になり、王国会館で顔を合わせる機会がなくなったので確認できるのがその頃までだからであり、私たちが見ていないだけでその後もムチを続けている人がいた可能性は十分にあると感じる。
⑦エホバの証人のムチについては、強調したいことが2つある。
1つは、私の両親も、私たち夫婦も、「ムチをしない親は子供を憎んでいる」とエホバの証人に教えられたからムチをしたということ、もう1つは、私たち夫婦と子供との間ではムチによる親子の亀裂が何年も続き、子供は私を怖がり2人で出かけたりすることを拒絶していたが、幸いにも私の父自身が「エホバの証人の教理は間違いだった」と私たちに気づかせてくれたので子供とも打ち解けて普通の関係を築くことができるようになり、エホバの証人の信仰を実践しなくなった今は、エホバの証人を熱心にやっていたときよりも何倍も何十倍も幸せな親子関係、家族生活を送れているということ。

5 報告事例5

 上記の実例4は、「お尻をゴムホースで叩く」という、一貫してみられるムチの特徴を維持しつつ、他の「子供に苦痛や恐怖を与える」方法もとられていたという実例です。こうした実例を訴える方々は他にもおられます。別の40代前半の女性は、以下のような実体験を弁護団に語ってくれました。

【事例5】

①自分がムチをされていたのは、東京都多摩市。物事ついた頃から13歳くらいまで、身体的暴行というムチを受けていた。自ら下着をおろしてお尻にムチをされ、ずれて背中にあたってもお構いなしだった。2、3回の強烈な打撃が基本のセットだったが、「犯した過ち」の内容に応じて数が増え、ムチが終わった後は「ありがとうございます」と言わなければいけないがなかなか言えず、言うまで追加でムチをされた。
使用された道具は、集会用のエナメル細ベルトで、自宅用は分厚い革ベルト(形状・柄をハッキリ覚えていて、このようなものだったという写真を弁護士さんに送っています。)
②生理が始まり、それを理由に下着を脱ぐことを拒否すると、別の方法で苦痛を与えることが始まった。
「長期間の無視」で、母は全く一言も話をしないばかりか、ムチに値する行為があったと判断すると食事を与えてくれず、その期間は1週間はざらだった。親から食べるものがもらえないので、外で椎の実を集めて自分で炒めて食べたり、家にあった砂糖をなめるなどしていたが、それが見つかるとその砂糖も隠された。中学校3年生くらいまでの期間、それにより酷い精神的ダメージを受けたが、こうした「別の形のムチ」は少なくとも20歳までは続いた
⑤ムチをされる理由は、集会時に寝ていた・集会のときに注解(注:信者が集会中に挙手をして短いコメントをすることで、熱心な信者であることの証とみなされる行為)すると約束していたのに挙手をしなかった・集会で話される教義のメモをとらなかった。・エホバの証人信者ではない子供と遊んだのがばれた・少女マンガなど「一般社会」のマンガを隠して読んでいたのが見つかったなど他にもたくさんあるが、どれも本当に些細なこと、そんなことでそんなことをされるのか、という理由でなにかとムチをされた。ただ、当然それらの理由は「エホバの証人の熱心な信者になる上で弊害となること」とみなされるものばかりだった。
⑥自分がいた会衆の周りの子は、それこそみんなムチをされていた。かなり幼少の子であっても、少しでもぐずると泣き叫ぶ口を押さえられ、王国会館内でムチをされて大泣きするのが信者みんなに聞こえるのが普通の光景だった。これを私がよく覚えているのは、それを見て逆に「親に暴行されるのは普通のことなのだ」「うちだけが異常なのではない」と感じて異常ともいえる安心感を覚えていたからだ。少なくともそうした「ムチが常態化している状況は」1997年頃まで目にしていたことを覚えているし、子供がぐずってもムチをしに行かない人がいると信者メンバーが露骨に非難するのをこの耳で間違いなく聞いている。
⑦現在でも、未だに「集会でコメントするための挙手ができず『帰ったらムチ』と言われる夢をみる・母がムチを輪っかにして左右に引っ張り大きな音を立てる夢をみる・母と同じこと(ムチなどの虐待)をしてしまう気がして子供を持つことが出来なかったなどの問題に悩まされている。なお、エホバの証人の信仰を離れた私は、現在、母親に拒絶されており、直接の会話もやりとりも一切できない状況で、信者である親族から伝言ゲームのように母からメッセージがくるだけである。

6 報告事例6

上記実例4は、「自分もムチをされていたが、自分の子供にもムチをしてしまった」という実例でした。このように、ムチをした親の側からの報告も複数寄せられています。そうした別の事例の1つとして、50代の母親の立場の方が語って下さった実例を紹介します。

①私は加害者側のエホバの証人1世元信者です。

②私が子供にムチをしていたのは、1980年代の終わりから90年代の終わりころの期間であり、子供が2歳半〜10歳位の時でした。場所は千葉県です。

③ムチをする道具としては、最初は手、次にものさし、そして革ベルト→電気コード→ガスホースというようにどんどん酷い痛みを与えるものに変わっていきました。それは周りの信者から「とにかくこれをつかうようにと指示されてのことであり、だんだん子供に与える痛みがつよくなる道具に代わっていったから」でした。

④ムチをする理由としては、子供が研究、集会、大会中に喋ってしまった時・反抗した時、エホバの証人教理で禁止されるものを持っていた時などでした。

⑤自分が初めてエホバの証人の集会に行った時のことをよく覚えています。当然、子供は静かにできなかったので王国会館内の本会場にいることができませんでした。そのため「静かにできるようになったらまた行きます」と自分の司会者に話したところ「子供の命がかかっている」と言われ、すぐに家での『子供の訓練』が始まりました。 自分の司会者のお子さんが私の子供より半年ほど上のお嬢さんで、その子を目の前で鞭うたれているのを見せられました。それから私も促されて自分の子を手で叩くようになりましたが、手で叩くと子どもに悪い影響があると言われ、必ず道具を使うよう勧められました。

⑥当時所属していた千葉県内の会衆にある王国会館には鞭が「鞭用の部屋」(給湯所だったと記憶しています)のシンクの引き出しに用意してありましたし、そこには数種類のムチがあった記憶です。そのうちの一つは、太いゴム製の真っ黒い棒でとても重量があるものでした。私はとてもそのようなものは使えませんでしたし、それこそまさに子供の体の骨にまで響くような重量で、今でも寒気がするほどなので、よく記憶しています。それを使う人はあまりいなかったと思います。

⑦いつ頃からか「鞭は家庭でするように」と言われた記憶があります。 私の子どもはとても活発でおしゃべりでしたので、いつも鞭が足りないといろいろな別の信者の方たちから言われました。集会中、私が集会場の演壇に行って自分の聖書発表の割当を行っている間に、親でもない会衆の開拓者の姉妹が静かにできなかった子どもに鞭をしたこともありました。

⑧エホバの証人組織及び信者からの明確かつ具体的な指示(私の視点からは「強制」としかいいようがないものです)があったので、私は子供にムチをしましたし、このような指示・強制がなければムチをしなかったのは間違いないと確信しています。今は深い後悔をしており、自分の過去の行いを正確に伝えることで、そうした被害に遭った2世の子供達の心が救われることに少しであっても役立ちたいとの迫られるような思いから自分の経験をお伝えすることにしました。

7 その他の事例

当弁護団は、2022年12月8日から2023年1月9日という、わずか1カ月の期間に「ムチ問題」についてのご報告・ご相談を募りましたが、データ化できた数だけでも76件に上りました。正確性を期すために引き続き直接の聞き取りと確認を継続していく予定ですが、「録音を伴う長時間の聞き取り」に応じて下さった他のいくつかのケースについて、以下のとおり、一覧表の形で掲載いたします(なお、番号は上述した各事例との通し番号になっています。また、今後さらに事例を追加していく予定です)。

※当弁護団では、現在も聞き取り調査を継続しております。一定の目途が経つごとに、引き続き段階的に公表致します。

年齢

性別

地域

時期

道具・ムチの理由・被害態様

教団の組織的関与について思う事・その他備考等

7

48歳 

女性

茨城県

5歳から14歳

1980~1989年頃

①ムチの道具は、ゴムホースの中にワイヤーを何本も入れたものが良しとされ、同じ物が私の家にも王国会館にも置いてありました。それは自分の親も含めた周りの信者たちが「なるべく子供に強い痛みを与えるようにわざわざワイヤーを入れたもの」で、つまり子供により苦痛を与えるための手作りの道具で、しかも親の手が痛くならないようにムチ棒を持つための「持ち手」を作っていました(ワイヤーを捻ってそこに持ち手のひもを作っていました)。

②集会中のよそ見、居眠り、親の機嫌を損ねる、周りへの体裁等の理由でムチをされました。ムチをされるとミミズ腫れが体に残りました。集会中にちょっとよそ見をしただけで母親は指で「あと何回よそ見をしたら鞭を打つ」というカウントをしていて、1度の集会で何人もの子供が外に引きずられ、地獄の様な時間を過ごしました。鞭への恐怖心から集会に来る度に吐いている子もいました。当時のエホバの証人の大会会場のトイレは全て鞭打たれる子供達の為埋まっていました。

①王国会館の玄関には鞭が置いてありその鞭の作り方を母親達と特別開拓者(女性二人)が模索していました。未だに覚えているのは「泣いているうちは子供は反省していない。ミミズ腫れになるほど鞭打ちひきつけを起こすくらいが良い」と母が言われていた事です。あまりにショッキングな会話でしたので今でも言葉通り鮮明に覚えています。こうした会話は何度も何度も繰り返されていたので、忘れたくても忘れようがないです。

②自分の親を含めた複数の親たちはわざわざムチを作るために王国会館に集まりあって、そこでムチをみんなで作って、家庭にもちかえって使いました(当時6歳くらいだった私は自転車に乗せられてその異常なムチづくりの集まりに一緒に連れていかれたことからあまりに鮮明に覚えているので、間違いありません)。

③今振り返ると、状況が異常すぎて、当時子供であった私が状況を咀嚼して言語化するのは到底不可能でしたが、とにかく子供時代に凄まじい恐怖感に支配されていたこと、そして、「エホバの証人の教えに少しでも背くとムチをされていた」ということを間違いなく言えます。

8

34歳

女性

愛知県

4歳~17歳頃

1992年~05年頃

①ムチの道具は竹ものさし30cm・プラスチック30cmものさしから始まり、90年代後半からは他の親信者から「受け継がれた」加工されたムチ棒に代わっていきました(長い靴ベラのように加工されていて、しなりが入っているので、より痛みが増すように自作されたものを別の信者から母が受け継いで手渡された。お手製のムチ用の袋までついていた。その袋の色や、素材などの特徴もよく覚えているので間違いないです。)

②集会中に寝てしまった、子どもなりの小さい嘘をついた、家での聖書研究中邪魔になった、親から「学校で、先生に布教するように」と言われたがそれができず「した」と嘘をついたのがばれた、自分は小さい時にかたつむりを書くのが好きだったのですが、家庭聖書研究中にそのかたつむりをひたすらエホバの証人教団の本に書いたなどの理由でムチをされました。

③多くの他の子供と同じように、自分で服も下着を脱いでお尻を出して酷く殴打されました。痛みや恐怖・屈辱感で泣き叫んで地団駄踏んでいるために「ムチが遅れる」と回数が増えました。兄と一緒にムチをされることが多く、されるのを待つ側は正座をしてその姿を見なければならず、今思い出してもすさまじい精神的打撃でした。

④思春期になってもムチの方法は変わらず、その頃には恐怖もそうですが、激しい屈辱と怒りの感情が強く、刃物があれば間違いを犯していただろうと今でも思います。

①基本は家でムチをされていましたが、エホバの証人の大会ホールに「ムチ部屋」と呼ぶべき場所があった記憶があります。ムチをするために用意されていたような小部屋で、「私たち子どもはそこに連れていかれたら終わり」という感覚を共有しており、大会では子供たちはみんな恐怖と絶望感で泣き叫んでいました。

②20歳の時にエホバの証人教団を去りましたが、母からは今でも口癖のように「あなたに振り回されてもう縁切る」と脅しのように言われます。正直私は関わりたくないし振り回されてるのは私です私の子どもが4歳になり母がすごい鬼のような表情で兄にムチしてたのがフラッシュバックするようになりました。そりゃやんちゃで頭ペちくらいはしますけどそんな内出血するくらい叩くことが出来たのかと思うとほんと恐ろしいと思います。

二世の1番の被害はムチももちろんですが普通の学校生活が送れないことではないでしょうか?”

9

40歳

男性

千葉県

3歳~14歳頃

①使用道具については、私の記憶ですと本当に幼い頃は平手でお尻を直に叩かれていました。しかし、ある時を境に不要になったビニール革製のベルトを二重三重に折り重ねられた上にガムテープでぐるぐる巻きにされたお手製の鞭に変わりました。②「懲らしめ」という名のつく体罰・児童虐待ですが、私にとっても恐怖そのものでした。事前に何発叩くか、などという宣言はうちにはありませんでした。母親の気が済むまでが終わりの時間だったように思います。それはいつ終わるのかがわからないという逆の意味での怖さでした。なぜ自分が叩かれるのかムチの開始前に自分の口から言わされ、それ自体が酷い精神的屈辱でした。少しでも母親の意思にそぐわない答えをすると激昂されさらに叩かれる、痛みを庇おうとして叩かれる箇所に手をやると、その手もろとも容赦なく鞭が振り下ろされました。手もお尻もミミズ腫れで真っ赤になり、泣けば泣くほど母親の怒りはヒートアップしていき、息を止めて涙が溢れ出すのを必死に堪えました。もう何が正解なのかも全くわからなかった。とにかく母の判断で「エホバのご意志」に反するとされればどんな正解を言っても容赦なくムチをされました。

③鞭をされた理由については、集会や奉仕・聖書研究の時に落ち着きがなかった、集会中にあくびをした、野外奉仕の家から家の訪問中に楽しくなさそうな顔をしていた又は笑顔がなかった、禁じられたテレビを見ていた(具体的にはドラゴンボール),ドラゴンボールの筆箱を友達からもらって隠れて使っていた、カードダスを持っていた、必殺技の真似をした、ふさわしくない言葉遣いをした、友達と遊ぶときに布教をしなかった、集会の日にギリギリの時間まで外で遊んでいた、など思い出したらきりがないですが、全ては「模範的なエホバの証人の子供」と母が考えるものと少しでも反すれば、すべての理由でムチをされました。

自分がムチをされなくなったのは、中学校2年になる頃でちょうどバプテスマ(洗礼)を受けて正式な信者になった頃であり、これが全てを物語っていると思います。つまり、正式な信者になれば「ムチ」はいらなくなるのであり、それは逆に言えば、「とにかくエホバの証人信者にすること、エホバの証人社会から外に出ていかないこと」を目的としてムチがされていたことが間違いないと確信しています。ちょうど、前しか見えないようにされた競走馬が、少しでも道を逸れそうになるとムチで叩かれるイメージと同じです。

10

40代男性

埼玉県  青森県  千葉県  埼玉県  北海道  埼玉県  神戸   神戸  (別会衆)

神戸  (別会衆)神戸  (別会衆)静岡県  神戸市
(上記全てにおいて自分又は幼い弟・妹がムチされた)

1977〜1985年

①道具は最初はプラスチック製ものさし。途中からより強力なアルミ製のものさしにいったん変わりましたが、親がすぐにほかの信者たちから情報を仕入れ、ガスコンロにつなぐようなゴムホースに代わりました。歳下の妹や弟たちの頃にはこちらのゴムホースが主流となってました。
②小学校入学前は、母親の研究でとなりに座っていることを強要され、長時間じっとしていられずソワソワしたら研究司会者が「懲らしめなさい」と母親に言い、母親はその指示どおりに自分のズボンとパンツをめくり、ものさしでお尻を何度も叩きました。同時期にはやっていたゴレンジャーやキョーダインなど、ヒーローもののごっこ遊びをしても叩かれ、許可なくお菓子を食べても叩かれ、集会前に昼寝をするよう言われても布団の中で動いたら叩かれました。当然集会中も態度が悪いと叩かれ、帰宅してからも反省していないと叩かれました。時には母親が振りかざすものさしを手でつかみとろうとなども試みましたが、「動かずお尻だけを出しなさい。手を出すとアンタの指の骨が折れるよ」と脅されました。

自分は相当の数の会衆を移転していたが、その全ての会衆で間違いなくムチがされていたので、どこの地域でもあったこと、70年~90年代に確実にムチがあったという事実を強調したい。組織が「しらなかった指導していなかった」などというのはあまりに稚拙な嘘であるとしかいようがない。時期の長さ・地理的範囲から自分はまさに証人だと思う。子供たちへの鞭による虐待は、すべての地域に共通して蔓延していました。

研究司会者も、自身の娘を厳しく鞭打って従順にしつけるよう、さらにその研究司会者から指導されたと語っていました。埼玉県坂戸会衆では、巡回訪問の食事招待でソワソワする子を巡回監督として来ている人が「これは鞭ですね」と、よその子を叩くよう命令していたのをよく覚えています。

子供同士でも気に入らないと長老に言いつける子がいて、長老から助言された母親が、言いつけた子が見ている前で鞭打つこともあった。

母親は「あなたがハルマゲドンで死んで泣くくらいなら、いま私の鞭を受けて泣くほうがいいに決まっている」と言っていたとおり、幼い頃から鞭の恐怖を植え付けることで、エホバの証人から離れることへの恐怖に結び付いたことは間違いありません。

自分は鞭を受けてエホバの証人には育ったものの、実際自分が親になってみると我が子がかわいくて、とても鞭打つことなどできなかった。そのため自分の母親と近い年代の信者たちからは「わたしたちの時代は、もっと厳しく子供をしつけたものだ」と、かなり威圧的に迫られたりしました。また、自分の息子と近い年齢の若者が、いまだ昔と変わらない鞭打ちを体験していると本人から聞かされ、非常に心配したこともあった。

11

40代
女性

大阪

東京

2世として生まれたのでおそらく0歳の時から13歳まで。

1970年後半から1990年頃

① 王国会館のトイレにムチが備え付けだった。そのムチは、以前滝本太郎弁護士が図で示したもの(手作りで強化されたムチ)と同じもの。靴べらやホース、ベルト、布団叩きなどもありました。 東京の王国会館地下室に防音室があったのでそこでされた。

②された理由は、集会で眠った時もそうだが、足に健康上の問題があって、座っていられなくなる時があって、足を何度も移動させている時などによくムチ部屋に連れて行かれました。他はもう覚えていません。
毎回長時間叩かれていたので、あまりの痛さに「これは自分ではなく知らない子が叩かれている」と思い込むようになり、斜め上から叩かれる自分を見ているような感覚になっていました。そうすると痛みを感じにくくなるのです。 大人になって病院で知ったことですが、これは子供の解離性障害という病気だったそうで、大人になってからその病気から派生したほかの病気などの治療が大変でした。また、今も子供の泣き叫ぶ声が苦手です。その子が叩かれるのではないかと思って萎縮してしまいます。

ある時期から、母が奉仕中に買い物をし、配達を頼んだスーパーの店員から性的虐待を受けていました。 親にも言えず荷物の受け取りを拒否すると、母に反抗的だと殴られました。 14歳で、これでダメだったら母を殺そうと思って母に集会にはもう行かないと反抗しました。 母は怒り狂いましたが、父が止めたため、私はエホバから離れることが出来ました。 エホバから離れた後は、滅びる子だからとムチはされなくなりました。

エホバの証人組織側の関与: 私の母は正規開拓者で特にムチ推奨だったため、叩けない他の信者に叩くように指示を出して、目の前で叩かせていました。その方は叩いた後に子供を抱いて泣いていましたが、母は誇らしげで恐怖を覚えたのをはっきり覚えています。 母はムチを愛の鞭と言っていて、愛するからこそ鞭でこらしめるのだと言っていました。 親の無性の愛があるからこそこれだけ叩いてもらえるのだと。

12

30代

女性

千葉県

(記憶にはないが)生まれた時~中1まで

鞭は必ず父が行なっていましたので自分の履いているズボンのベルトを使うか、布団叩き、あとゴムホースも使っていました。
姉たちに至っては「毛糸のパンツを履いていなかった」などという理由でムチをされていました。

宿題をやっていなかった、フラッと自転車で出かけて帰りが遅くなったなどの些細な理由でされましたし、兄と一緒に鞭をされることが多かったので、兄弟喧嘩が原因の多くだったかと思います。

往生際の悪い兄は鞭をされる前に「ちょっと祈ってもいいですか」と言い始め、「どうか痛くありませんように、鞭の回数が少なくなりますように」と延々と祈るので、父も段々イライラしてきて結局30回ぐらい叩かれていた記憶があります。

鞭をされた後は必ずありがとうございましたとお礼を言っていました。

私たち子どもが生まれる前から熱心な信者だった両親は、子供が産まれる前から研究生などに鞭を推奨していたと自ら言っています。
そのため、実際に自分たちに子供が生まれたときは「ムチについてお手なみ拝見」と周囲からいわれていたそうです。

13

50代
女性

兵庫県

京都府

1960年代後半~70年代前半

①物差し、布団たたき、ゴムホース、男性用ベルトでされました。

②母はエホバの証人組織の提案通り、会衆の他の信者達と示し合わせて、主に集会中にプログラムに集中していないなどの些細な理由で私たち兄妹を王国会館の廊下で叩きました。
それは単にノートに落書きして女の子の絵を描いていた、消しゴムをなん度も落とした、聖句を開かなかった、眠そうにあくびをした、後ろを振り向いた、など、子供ならよくする動作が懲らしめの対象になりました。
それ以外にも、母親の機嫌の悪い時、怒りに触れた時、兄弟ケンカをした、など日常的に母が突然怒り出すと、「お尻を出しなさい!」と怒鳴りつけられ、自ら服を脱ぎ鞭を打たれていました。

③回数は、10〜20だったと思います。だんだん感覚が無くなり、「死んだらこうなるのかな」と妄想の世界に逃げ込んでいました。

巡回監督の訪問のあと「会衆の必要」という会衆向けの説法があり「この会衆は子供達がよく躾けられています」と褒めてもらうと「私らが鞭を打たれているから満足したんだわ」と子供なりに穿った思いで聞いていました。

他方で、「懲らしめが必要です」なんて巡回監督の訪問の後に言われると、その日からどの姉妹たちも激しく子供を廊下に引っ張っていくので、恐怖でした。巡回監督の指示次第でムチの激化が起こっていたと言えます。

会衆の姉妹(女性信者達)達は、どの鞭が効き目があるか、集会の後、鞭の見せ合いを毎回やっていました。はっきり覚えています。表面が赤くなるが内部の肉まで裂けない素材は何か?なんて嬉々として研究していて中が空洞のゴムホースは最適だと親達が話していたのを鮮明に思い出せます。

集会中、子供が泣き叫びながら引き摺られていく光景は、ごく当たり前の日常的な光景でした。子供がどんなに大声で「ギャーごめんなさ〜い!ごめんなさーい!」と叫んでいても集会は続行され、演壇から話している兄弟は、全く動じず、まるで聴こえていないかのようでした。それは本当に異常な光景でした。

大会でもトイレに行くと、女子トイレは、鞭の列なのか、トイレの列なのか、分かれて並んでいていつも「こっちです」と言ってはぞっとしたのを覚えています。

異常としか言えないムチが当然のこととして横行していた80年代、90年代にエホバの証人組織にいた方で「ムチを知らない」などという方が果たしているのだろうか、もしそうなら何を見てきたんだろうと本当に思いますし、この問題が世間の目に明らかとなってくれることを強く切望します。

14

30代

男性

北九州の複数の会衆

2~12歳頃

①道具は、普通のガスホースを「わざわざクロスさせ交わった部分を縛って」子供への苦痛を強化した手作りのムチ(その色も今もしっかり覚えている。ホースはオレンジ系・縛る部分は黒。)
1度のムチにつき10発程度たたかれる。ベルトの時もあったがガスホースのほうが超痛い。なのでわざとベルトの時に痛がるふりをしていたりした。
手首を縛られてつるされてムチされたこともある。その時の光景が焼き付いているので記憶に間違いない。
②とにかくいろんな理由でムチをされた。王国会館の中を走ったこと、集会中に寝ていた、集会で集中しないで手遊びをしていたなどが理由。2歳の時などは幼すぎて、当然になぜやられていたのか訳も分からないのが正直なところで、一般常識で考えて「そこまで酷い事をされる」のに値するほどの悪いことをした記憶は全くない。

全く当然のことのようにエホバの証人組織の中でムチが勧められていたことはみんな知っている常識レベルで、みんなが「普通に」やっていたことだった。

そう言いきれる具体例を挙げると、例えば中学生の頃などに「ムチマウント」のような会話、子供たち同士で「自分がどれだけ酷いムチをされたか」「何々君のほうはまだ甘いな」とか、「それでもあれはさすがにやりすぎなので、自分に子供ができたら到底できない」という会話などがあった。

15

30代 女性

埼玉県

小学校に上がったころから小3まで

①素手に素尻で20回ときまっていた(成人女性の力いっぱい)。

ただ、母は長老の妻であった司会者から、ホースや手製の謎のムチ道具を手渡され「これを使ってムチをするように」と言われて非常に戸惑っていた様子を目撃しています。

②された理由は集会中の居眠り。王国会館のトイレの横に「ムチ用スペース」が作られていて、仕切りがない場所だったことをよく覚えている。

母は優しい人で、他の信者から過酷なムチをするように迫られても迷いを子に隠すことができない人でした。

「私は自分も痛い素手を選ぶ」と私と自分に言い聞かせるように言っていたのを覚えており、それで私の場合は素手で済んだと思います。また、会衆の移動があり、過酷なムチを母に迫っていた信者がいない場所に移動した後は、ムチはパタリと止まりました。

自分としては、イヤイヤながら「ムチをするようにという」指示に従った人たちが口を塞がれているような雰囲気を感じます。私はバプテスマを受けていなかったので、エホバの証人を離れても「排斥」処分にならなかったので母は自分の孫とも普通に会えていますが、母の友人信者は、子が排斥となり、関係が断絶している人が多く、孫とも会えない人が多いです。そうした人たちが家に来るときは、母はその人たちの心情を思い計って、来客の都度、孫に関わるものはしまっています。
ムチに関してエホバの証人組織が指示したことは間違いないと感じているので、組織側が信者の判断のせいにして責任から逃げ切ろうとすることに怒りを感じます。

8 エホバの証人出版物が「ムチ」について述べること

エホバの証人の発行する出版物は、子供への体罰についてどのようなメッセージを発してきたのでしょうか。

1.我々が入手できた最も古い資料は、「ものみの塔誌」19544月1日号です(日本での近代のエホバの証人の活動は実質的に1949年に開始(再開)しており、1950年代前半のものみの塔誌は現存することが珍しい最も古い部類の貴重な資料です)。

この雑誌の中では、次のような挿絵が明示されており、「子供の臀部を」、「道具を使って」、「文字通り叩く」という強いメッセージを与えるように思われます。

 

また、本文の記事においては、「愛情をもって懲らしめをする事」などが要所要所に確かに記載されているものの、「議論の的となっている問題に私たちは直面せざるを得ません、すなわち、叩こうか?それとも叩くまいか?ということです」との問いに対して、「鞭を惜しんで与えない者は、その子を憎むものである」「傷がつくまでに打つならば、悪い心を清め、打つならば、奥深いところをも綺麗にするであろう」と記載されています。ほかにも、「鞭を用いることに関して言うならば、増大しつつある年少者犯罪に直面して、多くの児童心理学者がその意見を変えて廻れ右をし、叩くことに賛成しているということは注意に値すべきことです。」といった記載も見られます。

2.上記の記事は確かに非常に古いものですが、多くの元エホバの証人が訴える「ムチの基本的なやりかた」の特徴に合致する部分が多いように観察されます。

その後、エホバの証人組織は、その出版物の中で繰り返し「懲らしめ」や「鞭」の必要性について言及しています。いくつかの例を挙げるならば、

ものみの塔誌196311/15.p689

ものみの塔誌197312/15.p749

ものみの塔誌19797/15 3-4

ものみの塔誌1979.8/15p30

ものみの塔誌1978.8/1p32

ものみの塔誌198210/15 p8-9

ものみの塔誌198710/1p15-20

ものみの塔誌199111/15p8-13

目ざめよ!誌197410/22p15

目ざめよ!誌19798/8p29

目ざめよ!誌1980.3/8p28

目ざめよ!誌198212月8日 p4―7

目ざめよ!誌20133p4―7

などが該当するかもしれません。

もちろん、これらの記事においては「懲らしめは愛を動機」とすべきということ、「懲らしめはケースバイケースであること」、「感情に任せた暴力の行使を否定する」内容等が掲載されています。ただそれと同時に、以下のような文言も書かれているようです。

■『アダム​の​子孫​は​みな​こらしめ​が​必要​です。そして​時​に​は​しっかり​と​こら​しめる​ため​に​むち​で​痛み​を​加える​必要​が​あり​ます。「愚か​な​こと​が​子供​の​心​の​中​に​つなが​れ​て​いる,懲らしめ​の​むち​は,これ​を​遠く​追いだす」。(箴言 22:15,新​口)ですから​エホバ​の​こらしめ​は,いつ​の​場合​も​むち​を​ひかえる​世間​の​専門​家​が​すすめ​よう​な​なまぬるい​もの​で​は​あり​ませ​ん。箴言 23​章​13,14​節​は,もともと​実際​の​むち​の​こと​を​言っ​て​いる​の​です。「子​を​懲らす​こと​を,さし控え​て​は​なら​ない,むち​で​彼​を​打っ​て​も​死ぬ​こと​は​ない。もし,むち​で​彼​を​打つ​なら​ば,その​命​を​陰府​から​救う​こと​が​できる」。ですから​両親​は​時折り,子供​に​痛い​思い​を​させ​て​理解​さ​せる​必要​が​あり​ます。そう​し​て​痛い​思い​を​させ​て​も,それ​で​子供​が​死ぬ​こと​は​なく,かえって​よい​影響​を​与え,子供​を​保護​し​て「その​命​を​陰府​から​救う」でしょ​う。』ーものみの塔誌196311/15.p689

■『懲らしめ​は​ことば​で​正す​以上​の​形​を​取る​こと​が​時​に​必要​です。それ​は,聖書​も​述べる​とおり,人​は『ことば​で​戒め​られ​て​も​改め​ず 知っ​て​い​ながら​従わ​ない』場合​が​ある​から​です。(箴 29:19)したがって,神​の​ことば​は​さらに​こう​勧め​ます。『子​を​懲らす​こと​を​せ​ざる​なかれ むち​を​もて​彼​を​打つ​と​も​死​ぬる​こと​あら​じ もし​むち​を​もて​彼​を​うた​ば​その​魂​を​陰府[墓]より​救​ふ​こと​を​え​ん』― 箴 23:13,14。子ども​の​命​そのもの​が​かかっ​て​いる​の​です。誤っ​た​道​を​追い求める​まま​に​放任​さ​れる​なら,それ​は​子ども​の​不幸,また​神​の​恵み​の​外​で​の​死​と​いう​結果​に​も​なり​ます。それゆえ​聖書​は​こう​述べ​ます。『むち​を​加​へ​ざる​者​は​その​子​を​憎む​なり 子​を​愛する​者​は​しきり​に​これ​を​い​ま​し​む』― 箴 13:24。そう​です,しり​を​ぴしぴし​と​たたく​こと​を​含め,自分​の​子ども​を​正す​ため​に​親​が​なん​で​も​手​を​尽くす​こと​は,子ども​に​対する​本当​の​愛​の​表われ​です。』ーものみの塔誌198210/15 8-9

■『よちよち​歩き​の​子供​を​持っ​て​い​た​母親​カルメン​の​話​に​よる​と,その​子​は,「自分​の​思い通り​に​なら​ない​と​かんしゃく​を​起こし,金切り​声​を​あげ​始め​た」と​いう​こと​です。では​それ​は​どう​解決​さ​れ​た​でしょ​う​か。「私たち​は​息子​に​懲らしめ​を​与え​なけれ​ば​なり​ませ​ん​でし​た。ですから​息子​は,大騒ぎ​を​演じる​なら​必ず​ぶた​れる​と​いう​こと​を​知っ​て​い​まし​た」。しかし,小さな​子供​に​罰​を​加える​と​いう​考え​に​仰天​する​向き​も​あり​ます​が,カルメン​は,子供​たち​を​訓練​し,懲らしめる​よう​聖書​が​励まし​て​いる​こと​を​知っ​て​い​ます。(エフェソス 6:4。箴言 23:13)これ​は​時々​子供​を​ぶつ​と​いう​こと​に​も​なる​でしょ​う。』-目ざめよ!誌198212月8日

9 考察

現在においてもエホバの証人教団内で「ムチ」という身体的で露骨な児童虐待が行われているかどうかは不明です。多くのエホバの証人関係者は、近年ムチという悪習は(かつてと比較すると)著しく減少したと感じているようであり、それが事実である可能性は高いようにも思われます。

ただ、上述した各事実からは、以下のような事実が疑われるようにも思われます。

1.ムチが行われていたのは1990年代だけではないように観察される。現にムチがあったという実際の証言の期間は、1960年代から2010年代半ばまでに亘っている。

2.過去のかなりの期間に亘り行われ続けてきたムチは、短い報道の言葉では想像できないほどに苛烈であったように思われる。経験者の証言には「ミミズ腫れが数週間残存した」「ムチをされた後は座ることもできなかった」「重度の精神的なダメージを数十年経っても負い続けている」というものが多い。

3.ムチに使われる道具は、時を追うごとに変化(悪化)し続け、より子供に苦痛を与える道具が選択されていった傾向が強いものと思われる。また、幹部信者からムチの道具を指定されたケースがあるほか、信者である親同士でムチを自作したり提供しあったりしていたケースが多いものと思われる。

4.ムチをされる理由はどんな些細なことでも「親がエホバの証人の教えに反する」と判断した場合になされていたとの証言が多く、「子供をエホバの証人の世界に閉じ込めること」を目的として行われていた可能性がある。

5.「3」と同様に、子供がバプテスマ(洗礼)を受けて正式な信者になるとムチがやんだとの証言が複数あり、「子供をエホバの証人にすること」を目的として行われていた可能性がある。

6.仲間の信者や教団の幹部から強く推奨されてムチが行われ続けており、「ムチをしないのであれば子供を愛していない」という心理状態に信者の親たちが陥り、ムチが伝播・常態化・激化していった蓋然性が高いように思われる。

7.過酷なムチが家庭内で相当長期間にわたり行われ続けたため、ムチ被害に遭った子供は大人になってからも数十年に亘り、親との関係を修復できずに苦しむケースが多い。すなわち、ムチ問題は、今も現在進行形の問題である

※私たちとしては、引き続きムチ問題についての調査・分析を進め、今から先、万が一にも決してこのような悲惨な出来事が繰り返されないように努力を続けるとともに、過去になぜこのようなことが起きたのかについての検討を続けることにより、今現在も苦しみ続けている人のその苦しみが少しでも和らぐよう努力を続けてゆく決意です。

 

脚注

  1. 信者家族「たたかれた子」と親の間の埋まらない溝「信仰心による体罰」責任を負うのは親だけか
  2. 毎日新聞「声を聞いて」シリーズ